【ネタバレ】シンエヴァンゲリオン感想

シンエヴァンゲリオンを公開初日に見てきた。

初めに警告しておく。
自己満足の作品を自慰行為に例えることがあるが、この記事はどちらかという嘔吐に近い。
気持ちよくなるために行う点は同じだが、内なる感情の発露というより暴飲暴食の結果という感じだ。 他人の吐瀉物を見て、もらいゲロしたい人だけ先を読み進めてほしい。

感想ブログもいくつか見たが、しっくりくるものもないので自分なりに吐き出しておきたい。
「吐き出しておきたい」というのがこの記事を書いた目的で、勢い余ってブログを開設してしまった。
ツイッターでネタバレを叫ぶわけにもいかず、このもやもやとした思いをどこかにぶちまけておく必要があったのだ。

自分とエヴァンゲリオンの付き合いはテレビシリーズ放映からで、25年ほどにもなる。
子供がオッサンになるほどの期間、「まだ終わってない」というしこりを心に残してきた作品ということだ。

思春期にエヴァを見て脳みそを焼かれてしまった人は多いんじゃないかと思う。
自分も何か新しいものを作りたいと思っても、結局エヴァの焼き直しになってしまう、などと悩んだ人もいるだろう(EDENの作者がそんなことを書いていたことを思い出した)。
エヴァ以降、キャラクターの内面を描けば「エヴァっぽい」、ミステリアスで無口な少女が出れば「綾波のパクリ」、人間っぽいギミック(歯とか指とか)を備えた巨大ロボット・モンスターが出れば「エヴァじゃん」と言われた時代が確かにあった。
ハルヒ長門綾波のパクリで、Fateの凛はアスカの焼き直しで、なるたるのラストは旧劇のオマージュだ。そのように何もかもがエヴァのパクリに見えてしまうという病に罹っていた。
デビルマンの件は知っている。何が源流か、という話はしていないのでいちいち突っ込んでこないように。)
エヴァンゲリオンは新しい物語だった。
25年の間にエヴァより新しいアニメはなかった。
その前と後では、何もかもが違ったのだ。

およそロボットらしくないロボット、
およそヒーローらしくない主人公、
ヒロインらしき少女2人はいくつかの急接近イベントを経てかたや自爆、かたや精神崩壊。
おまけに「たぶん私は3人目だと思うから」ときた。

渚カヲルTVシリーズ・旧劇場版含めて1話しか出てないのにあの手の「超能力達観少年」のテンプレを作り出したといっても過言ではない。
しかも1分半もの止め絵の後に首ちょんぱだ。


どうするんだよこれ... と思ったらラストは伝説のおめでとう回。
その後の旧劇場版。
何一つ納得のいかない「まごころを、君に」。なんやねんまごころって。

いや、こんな感想も散々繰り返されたエヴァ評論の焼き直しでしかない。書いててむなしくなってきた。
とにかく、エヴァは何よりも新しく、脳を焼く作品でありながら、何も解決せずに終わった。
物語というのは観客にストレスを与え、そのストレスを解放することで終焉する。
キャラクターの挫折、死、より強い敵、より難しい問題、謎、不安、ストレスは強ければ強いほど解決したときのカタルシスも大きくなる。
エヴァが観客に与えたストレスは甚大なもので、「映画館の観客の姿を映す(実写)」という掟破りまで使われたが、そのストレスは一切解消されなかった。
だから旧劇場版でまったく続編の考えられないラストを見せつけられても、どうにも納得ができずにああだこうだと自分なりの解釈を重ねて何とか消化しようとしてきたのだ。

シンエヴァを見るにあたって「序」「破」「Q」を見直した。
10年の懊悩の果てに公開された新劇場版。と言っても、「序」はそれほど盛り上がらなかった。
「作画を新しく、話をまとめたリメイク」程度の位置づけでしかなかったのだ、当初は。
それが「破」で覆った。
今でも「綾波を返せ」のくだりはぐっとくる。
ああ、これが見たかったのだ。 10年前、シンジ君のように苦悩し、ふさぎ込む主人公は珍しかった。
だがエヴァ後にタケノコのごとく生えた焼き直しの物語を延々と見せられ、もううんざりしていたのだ。 なすすべもなく友人も仲間も失っていく物語など、もうおなか一杯だったのだ。

あのとき、シンジ君の覚醒とともに物語は完全に変わったのだ。俺たちが10年、悶々とし続けた物語は、さらなるカオスではなく収束に向かって動いたのだ。
それを劇場で見たすべての人が感じ取っただろう。あれっ違う。これは昔の庵野ではない!庵野!ついに目覚めたのか!!ようやく俺たちを救ってくれるのか!!!

その前の展開で、アスカが使徒に取り込まれてトウジの身代わりになって退場してしまった。
もうそれで視聴者は動揺しまくり、「おいおいどうすんだよこれ...」状態になっていた。TVシリーズ終盤と同じだ。
またあのカオスが始まるのか。おめでとうエンドか、世界リセットか。
それでまた俺たちは悶々とし続けるのか。やめてくれ庵野。いい加減に俺たちを解放してくれ。

TVシリーズ・旧劇場版では結局アスカは救われなかった(解釈によるが)。
新劇でもひどい扱いになって、そのうえ綾波がパックンチョされた時点で観客は何も考えられない状態になっている。
そこでシンジ君の、あのシンジ君の、10年前は最後の最後までいじけて心を閉じて、絶叫して利用されただけのシンジ君の、命令形での「返せ」である。
「来い!」である。
全員が心の中で感嘆し、拍手喝采しただろう。
そして理解した。 これが見たかったのだ。 「新しく」もなく、「リアルな人間関係」や「難解な心象風景」でもなく。
シンプルでイージーエヴァンゲリオン。 物語が与えるストレスを、ちゃんと最後に解放してくれる。きもちよく映画館を後にさせてくれる。
それが「破」の物語だった。

これで終わるのだ。
俺たちのエヴァは、このカタルシスの中でようやく決着がつくのだ。
リツコさんがサードインパクトがどうとか言ってるけどいいじゃないか。アスカは封印されたまんまだけどいいじゃないか。シンジ君は答えを出した。それでいいじゃないか。
Qの予告でアスカ復活してたし、万々歳だよ。
もう何も怖くない。


そして、満を持してのQ。
結果は散々だった。
「破」並みのカタルシスを期待していった客は、再びカオスに突入した物語を見せつけられて、庵野!またお前はそれか!!やめてくれ、俺たちの物語をいい加減に終わらせてくれ!!!
と心の中で絶叫したことだろう。

今ならあれは必要だったのだとわかる。「破」が盛り上がりすぎてしまったのだ。
仕方がない。「破」は単に1本の映画ではない、14年の物語の決着なのだ。14年、エヴァという物語に悩まされ続けた人々への庵野監督からの回答だったのだ。
そのあとにたった一本の映画で同じカタルシスを与えられるわけがない。
だからもう一度、物語を再びカオスにぶち込む必要があったのだ。


確かシド・フィールドだったかと思うが、シナリオ・脚本術の基本に「主人公は一度死に、再び蘇る」というものがある。
孫悟空も、モンキー・D・ルフィも、ルパンやパズー、みんなそうだ。大きな壁にぶち当たって挫折し、再び立ち上がる。
そこに大きなカタルシスがある。壁は大きければ大きいほど良い。
読者がその解決方法を考えつかないほどめちゃくちゃでどうしようもない壁を、何らかの工夫や努力で乗り越えるところにカタルシスが生まれる。
だから、Qではいったんとことんまでシンジ君を追い詰めなければならなかった。
「破」が旧作のリメイクではなく、全く新しい物語、10数年にわたる叙事詩の真の完結編への道筋を示したことで、Qがそのような物語になってしまうことは確定的だったと思う。


だからこそ、本当の、これ以上はない最後の完結編としての「シン・エヴァンゲリオン劇場版」には期待があった。
いや、正直を言うと、今週の時点で自分としてはそこまで期待して観に行ったわけではない。
「Q」から、あるいは「破」から、もっと言うとTVシリーズ放映からあまりにも時間がたちすぎていた。
8年、あるいは25年の年月は、子供をオッサンに変えてしまった。
「もう、エヴァンゲリオンって年でもねえしな...」というのが偽らざる気持ちだ。
「別に見なくてもいいんだけど、ネタバレ食らうのも嫌だしな… 」
「ネタバレ気にしてツイッターやるのも面倒だし、いっちょ初日に見に行くか~」
というくらいの動機だった。
そして見た。

ネタバレ感想と言いながら、ここまでシンエヴァのネタバレがほとんどない。
そろそろちゃんと書いていこう。なんといってもこれを書くためにこのブログを立ち上げたのだ。
いよいよ吐瀉物のお出ましだ。エチケット袋の用意はいいか?




---- ここからは全力のネタバレ ----







まず、最初に言いたい。
なんでマリやねん。
なんでマリやねん。


そこは綾波とくっつけよ!!!おい!!!!庵野!!!!ふざけんな!!!!!!!!!!!!
12年前に「来い!」って言ってたやないか!!! なんで今更「キミ」呼ばわりなんだよ!!!
Qで冷たくされたからって、それはお前が救った綾波じゃないじゃん!
シンジ君視点では数週間~数か月くらいしか経ってないじゃん(多分)!!
旧劇だと綾波と一つになるのをやめてアスカを選んだ(?)んじゃん!
だったら新劇で救うのは綾波でしょ! 破はその布石でしょ! 違うんか!! おい!!!!


「マリって何のためのキャラ? アスカの代わりに弐号機に乗ってやられる役??(嘲笑)」と思ってたら、まさかの「オラッオタクども、いつまで初恋の女の子のケツ追っかけてんだ、新しい女に恋するんだよォ!!」って説教タレる役かよ!!!(タレてはいない)


ラストの「行こう!」ってハイテンションで駆け出して実写に移行するのも、「フィクションの世界から現実に行け」ってことなんだろうけど、もう視聴者の多くはそんな視点はとっくに通り過ぎて、いい年こいて結婚して仕事もしてんだよ。何なら親の介護だってしてんだよ。大震災、コロナ、失われた30年を延々ともがいてきたんだよ。否が応でもつらい現実に立ち向かわざるを得ないわけ。
学生の頃なら「現実を見ろ」というのは響いたけど、いい加減仕事もそれなりにこなしてると今更感があるんだよ。「いやお前に言われなくても日々現実に立ち向かっとるが...?」ってなるわけ。
誰もがエヴァに熱中してた時代はもう過ぎ去ったんだよ。お前こそ観客をエヴァに熱中させるために最善を尽くせよ。上から目線で悦に入ってんじゃーわ。


いやもう、大人になったシンジ君、達観しすぎじゃん。そうじゃないとあの事態を収拾できないのかもしれないけど。
ほんの数秒でいいからさ、綾波を抱きしめるくらいしてくださいよ。
14年間待ってたんですよ、初号機の中で。
抱きしめて「一緒に帰ろう」くらい言ってくださいよ、いや言えないのか、その時点では。でもいいじゃん。矛盾なんて他にも腐るほどあるんだし。陳腐? 陳腐でいいんだよ。
えげつない映像表現と25年越しの答え合わせの合間でいいから、陳腐なラブストーリーを見せてくださいよ。
それでオタクら感涙ですから。ねえ。ねえってば、聞いてます?


それで、アスカさん(さん付け)が助けられた後。
なんですかあれは。
ああいうフェティシズムを真面目な場面で出されると、逆に萎えるんだよ。ましてや旧劇ラストシーンのもじりであんなギャグみたいな恰好されたらもう、「なんだこれ」ってなりますよ。
ていうかなんで赤スーツ(四号機登場時仕様?)なんだよ。白スーツ着ていったやん。
こういうよくわからん矛盾もノイズなんだよ。
物語の背景やキャラクターの造形に必要ならノイズじゃないんだけど。
あれも要するに「大人になれ(なった)」ってことを言いたいんだろうけど、あまりに露骨なフェティシズム全開の描写がノイズになってる。
なってると思う。絶対ニヤニヤして描いてるでしょ。ていうか見てるほうもニヤニヤしちゃうでしょ。
なんだよ。感動的なシーンなんだから、真面目に感動的に描いてくれよ。
「逃げ」に感じちゃうんだよ。「もう、ほかのところでいっぱい見せたやろ? ここはメタ的な視点で楽しんでね」みたいな、作り手側のクソみたいな自意識が見えちゃうんだよ。
アスカの体が成長して、エヴァの呪縛が解けたって表現で、あんなムチムチにする必要ある???
マヤさんはフィットしてたじゃん、大人の女性だからってムチムチにする必要はないんだよ。ましてやプラグスーツが破けるとかないでしょ。伸縮自在でしょあれ。
そういうのは同人誌でやっとけばいいんだよ
公式は真面目にやってくれ、頼むから。


いやむしろ「萎え」こそがこの映画の目指したものなのかもしれない。
ゲンドウとシンジの戦いもまさにそれだった。
「なにこれ、CGチャチくない?」と思ったらまさにそれで、ギャグのような撮影セット内での戦闘。

いやいや。
そういうのはシンゴジラとかシンウルトラマンでやってくださいよ。
エヴァでは勘弁してくださいよ。
ニコニコ動画かよ。
そういう観客の叫びは十分に理解したうえで、「いや、お前らな、いつまでエヴァとか言ってんだ、25年やぞ。撮影セットの中でのお遊戯にいつまで傾倒してんだ、いい加減こんなチャチいアニメから卒業しろ」というメッセージなのかもしれない。
もしそうだとしたら、俺は「いや、そういうメタ的なメッセージを入れたがることこそお前がエヴァから卒業してない証拠だよ」といいたい。
純粋に楽しめる作品を作ってくれ。玄人とかオタクに向けたメッセージとかメタ的視点とか要らないから。


綾波が14年間初号機の中で待ってたって書いたけど、それは俺らも同じなんですよ。
何度も同じこと描くけど、Qから8年、破から12年、旧劇から23年、おめでとうエンドから25年も待ってたんだよ。
くっつくのがマリってどういうことやねん。誰やねん。



...
では、シンエヴァは駄作だったのか。そんなことはない。
ゲンドウの内面の吐露と「シンジ、大人になったな」はかなりぐっと来た。
達観したシンジをユイが救うのも「これが見たかったエヴァンゲリオン」だ。
暴力ではなく対話によって物語を決着させたのも、とてもエヴァらしい。
映像表現も、特に序盤のパリ戦闘は素晴らしかった。
あと弐号機VS13号機。 やっぱ弐号機が一番カッコいいわ。

しかし、シンエヴァに「新しさ」はなかったと思う。
ゲンドウの内面も漫画版や各種考察でさんざん言及されていたことだ。
そこに意外さはない。
残念というか心残りなのは、なんとなく作者の「投げた」感が伝わってきたことだ。
散々繰り返されてきた考察のとおりに進んでいく解説に、そう感じたのは自分だけではないだろう。
「ほら、決着してやったぞ。これが回答だ」
そんな感じだ。
TVシリーズ、旧劇場版は間違いなく作者の心の叫びが具現化したものだったろう。
だからこそ、カオスな物語の中でも人々の心に焼き付いたのだ。
しかしシンエヴァにそのような苦悩や狂気は見られない。
淡々とシナリオと設定を組み立てた結果出来上がったもの、そこにフェティシズムとメタ演出がノイズとなって乗っかっている。


大人になったんだ、庵野は。そして観客にも大人になることを求めている。
達観したシンジこそが、今の庵野監督の視点なのだろう。
そして、かつての自分を投影したゲンドウにそれを認めさせた。
「大人になったな」と。


それはいい。
そういうテーマを描くのはいいが。
であるなら、もっと作者の意図を隠してくれ。
シナリオに作為を感じたら、もうそこで感情移入は終わってしまうんだ。
決意したシンジ君に銃を突きつける二人の女性も、いかにもとってつけたような演出だ。
だって、ほっといてもフォースインパクトは起こるんだから、それに立ち向かうシンジ君を止める理由などないではないか。
あのような状況では冷静に判断できない?
そうだろうか。
そのような擁護もできなくはないが、周りの大人たちが冷静な中で、あの二人の行動はいかにも非理性的で愚かに見えた。
脚本的に、死地に向かうミサトさんに傷を負わせたかった、そのほうが盛り上がるから、とか、旧劇場版の最後のセルフオマージュをやりたかったとか、そういう演出の意図しか感じないのだ。
あの二人はそういう役回りのためにQの冒頭から登場していたのかと思うと、なんだか急に醒めてしまうではないか。


とってつけたような演出と言えば、序盤~中盤のふさぎ込むシンジ君だ。
いや、またそれかよ、とうんざりした観客も多かったのではないか。
いくら何でも他人を拒絶しすぎだろ。


これには多分エヴァ自身の功罪もあって、エヴァ後、「罪の意識からふさぎ込む」というような演出は散々繰り返されてきた。
無数のキャラクターたちがありとあらゆる形でふさぎ込み、自身の内面に向かい合い、サイケデリックな景色を背負って絶叫したりした。
それはエヴァを鋳型にしたものだ。
鋳型となったシンジ君自身が、凡庸な焼き直しのふさぎ込み方しかできなかったというのは残念としか言えない。


そして、そこにも作為を感じ取ってしまうわけだ。
物語の流れから言えば、序盤でふさぎ込み、中盤にかけて立ち直り、一度姿を消して再びクライマックスで立ち上がる。
お手本のようなシナリオだが、そこに新しさはない。狂気も見えない。


作為は当然あるべきものだが、見えてはいけない。
キャラクタ―達は自分の認識と感情をもとに動いていなければならない。
時には不合理なこともし、話の筋をめちゃくちゃにする。
それがカタルシスを呼ぶ。

端的にいって、シンエヴァンゲリオンは「賢者モード庵野監督」によって描かれた物語だ。
コミュケーション不全の厄介な昔の知り合いなんぞ捨てて、空から降ってきてグイグイ来る都合のいい女を愛せなどと、旧劇のシンジ君を生み出した庵野監督が言うだろうか?
自分自身が満たされてしまって、内なる叫びが出てこなくなったのだ。
そう感じた。


シンゴジラで見せたような、類まれな破壊の演出、独特なキャラ描写の才能はこれからも発揮されるだろう。
しかし、エヴァのような狂気をはらんだ作品は二度と出てこない。
「終わった」とは言うまい。次のステージへ進んだのだ。
置いて行かれた我々は、沈みゆく日本ともに解釈の輪廻にとどまることしかできない。
誰が悪いわけでもない。
これはオタクの宿業なのだ。
庵野はそこから解脱した。
ならば手向ける言葉はただ一つだ。

おめでとう。 おめでとう。 おめでとう。
庵野に、ありがとう。
庵野に、さようなら。
そしてすべての解脱者に、おめでとう。






なんだこれ。